大人のカイダン

思ったことをありのままに書いてます。

草食系男子は不倫を生む

 今や日本中にはびこる「草食系男子」。彼らは各地に生息し、肉食獣をしのぐ勢いで日本を支配しようとしている。日本よ、このままでいいのか。一見、草食系男子は「優しくて、思いやりがあって、気遣いがあって、疲れた心を癒してくれる最高の存在!」のようにみえる。日本中の栄養が足りてない多くの女性から絶賛され崇め奉られている。そんな世の女性たちに警告を鳴らしたい。早まるでない、日本の女性たちよ。

 草食系男子がもつ、もっとも危険な要素は何か。それは、「NO」といえないことである。断れないことは決して優しさなどではない。良くも悪くも、好意を感じ、女性から迫られると、自分に相手がいても押し切られてしまうのである。そして、切るに切れない関係へと変化を遂げ、最終形態として継続した浮気、もしくは不倫になってしまう。草食系男子は、日本に不倫を充満させるのである。

 肉食系男子の場合はどうなのか。おそらく、彼らの方がシンプルだ。本能のままに生きるからこそ、不倫をダラダラ続けるような中途半端でめんどくさいことはしないだろう。1度の浮気はするかもしれないが、特定の人と長く続けることは少ないのではないだろうか。1度の浮気も最低だが、長々と関係を続けるよりはマシな気がする。

 もしかしたら、女性側の肉食化、いや野獣化が急速に進行しているのも要因なのかもしれない。動物の食物連鎖のように、ライオンを前にしてあらがえない子羊たちは、身を任せ食われていく。抵抗よりも身を委ねる方が楽だからだ。もしくは、抵抗を無意味だと、本能的に感じ取っているのかもしれない。関係を切れず、断ることができないのは優しさではなく、怠惰である。子羊よ、断る勇気をもつのだ。

 あちこちにいい顔をしようとする男は危険である。顔がよければ、尚危険だ。ここは昔のやまとなでしこがたくさんいる日本ではなく、もはや肉食獣という名の女が生息するアマゾネスである。

あの時感じた衝動の名前を私はまだ知らない

  理由は後づけだと思う。人は行動や感覚が先行し、行動の意味づけをあとにする。だから私は、日常生活において自分の「無意識」の部分を大切にしている。

  人の脳は、無意識の部分が9割を占めていると、本に書いてあった。無意識に思うことやワクワクすると感じること。今までの人生の経験からそれを感じ取り、行動に起こすことが、人生を楽しむヒントだと考えている。だから、私が日頃感じている「無意識」を見逃したくない。

  将来の仕事を考えるうえで、様々な話を聞いて、文献を読んだ。仕事内容にワクワクを感じたのは、たった一つの仕事だけだった。私は、その仕事に魅力を感じた。単純に、仕事をする中で、常に自分を「追い込む」ことができる、「成長」を与えてくれる仕事だと感じたからだ。それは、その仕事を知っていくにつれて高まっていった。そういう理由で仕事を選んではいけないのだろうか。論理的な理由付けなど、後からいくらでもできる。その無意識の自分の高まりで仕事を選ぶと危険なのか。

  もしかしたら、仕事をしていく中で「思っていたのと違う」と考えることがあるかもしれない。そう思って人生を転換するのは、手遅れなのだろうか。果たして、仕事を決めてしまったら本当に「引き返せない」の?

  私が大切にしている言葉がある。「百聞は一見に如かず」という言葉だ。いくら人から聞いても、実際に経験してみないと分からない。そう、何事も実際にやってみないと分からないのだ。

  両親はたぶんわかっている。私が思っているよりも、社会は甘い世界ではないこと。そして、仕事をするうえで、やりたくない仕事なんて山ほどあること。けれど、両親は私がやりたいということを止めない。それはなぜか。とりあえずやってみないと分からないことを知っているからだ。仕事を選ぶにあたって意見を言わないことは、いろんな意味を含んでいるのだろう。多分、自分の人生に責任をもて、人生の選択に責任をもて、ということも。

 自分の衝動に向き合って生きたい。せめて、それが許されるうちは。

   常に探求心をもって生きたい。人生はどうやったら楽しく過ごせるかを模索しながら生きていくと、きっと輝いたものになるだろう。

 迷ったら、とりあえずやってみよう。周りから反対にあっても、自分の衝動からくるものであれば、行動したことに何かしらの意味はあるはずだから。何か違う、と思えばやめればいい。

 間違いだらけの人生?正しい道を選んだ人生?そんなの誰にも分からないのだから。

 

 

嫌われ桃子の一生

 誰しもがみなこう思っている、「人に好かれたい」と。社会的集団の中でしか生きていけない人間は、何らかの形で人と関わらないことには生きることの困難な世の中になってきている。人と関わる以上、人に好かれたいという思いは誰しもがもっており、人が憧れる人や好かれている人を見ると羨ましく思える。今日は、曲がりなりにも22年間生きて生きた中で感じた、人に好かれる生き方とは何か、人付き合いにおいて私がもつスタンスについて論じたいと思う。

 人に好かれるということだけに焦点を置いて考えてみると、一番欠かせないことが一つある。それは「忍耐力」である。

 身の回りで考えてみてほしい。あなたの周りにいる人でよく好かれている人は、あまり人に意見せず、すべてを受け止めたうえで肯定してくれる人ではないだろうか。

 まれに無意識にそれができる人がいる。私から言わせてみればたぶん何も考えてない人だ。それか、いろんな考えを張り巡らせた上で、その人を傷つけないよう最良な言葉を考え、傷つけないよう配慮している慈愛の精神に満ち溢れた、神に近しいとされている人間である。

 私は普通の人間だ。はっきりいって生きていく中で人に嫌われるのが怖いし、できるだけ私に対して良好な気持ちで笑って接してほしい。だからこそ、人と接していてマイナスな気持ちになっても、悪口を言われても、悪意を込めたアドバイスを受けても 苦手な人と接するときでも、一旦我慢して負の感情や言葉を、相手に対して向けないようにしている(忍耐力は長年培っていく中で徐々に身についていき、未だ発達段階である)。スタンスとして、自分が向けて嫌な気持ちになる言葉は、相手に対して向けないようにしようということを心がけている。ただ、完璧及び善良な人間ではないので、時には負の側面が出てしまったり、相手を傷つけてしまったりすることがある。そんなときは「おうち反省会」をしてなるべく後フォローを入れるようにしている。(無意識で行っているときが本当に怖い)人間の体というのは不思議なもので、そうしていくうちにだんだんと人と接する上で、ちょっとやそっとじゃ嫌な気持ちにならなくなり、今ではちょっとやそっとのことでは対人関係において負の感情を抱かなくなった。

 なるべくなら人に好かれたい。でも、やっぱりどうしても嫌われてしまうことも多々ある。そんなときに負の感情を全面的に向けられるのは辛いものがある。世界にいる人の中で2割は無条件にあなたのことを嫌う人が存在するというのもうなずける。

 しかし、逆に考えると、あなたのことを嫌いな人はあなたにとっての運命の人かもしれない。よく、好きと嫌いは紙一重というが、嫌いという感情は、好きという感情よりもエネルギーが必要であり、あなたに対してそれだけ大きなエネルギーを使ってくれるということなのだ。嫌いというのは興味があるという証拠。人は一方的に好意を向けてくれる相手に対して、嫌いという感情を長く抱き続けることはできないと、どっかの偉い人が言っている。だからこそ、あなたが相手に対して、嘘でも好意を持ち続けるふりをすれば、負の感情が大きければ大きいほど、それが好きの感情に転換したときの威力は凄まじいものになる。

 相手に対して傷つける言葉を向けるのはやめよう。自分に嫌いの感情を向ける相手に対して、すぐに自分も嫌いになるのではなく、自分は逆に好意を向けてみよう。興味をもって積極的に話しかけてみよう。そうすると、世界が広がり、生きていく中で思いもよらない人間や面白い人間にたくさん出会えるかもしれない。人は、好きにせよ嫌いにせよ、大きな感情を抱いている相手に対して、話しかけられると案外嬉しいものである。

ガール・イン・ザ・ダーク

 五月病になりかけの今日この頃。昨日ふと、いきなり死ぬのが怖くなっていろんなブログで対処法を読み漁った。

 よく、「死にたい」だとか「なんで生きてるんだろう」だとか聞くことがある。死って漠然としていて実感し得ないものだから、私は怖いという感情以外もったことない。だからこそ、気持ちはわからない。私はたぶん今まで死にたいと思うほど辛いことに出会わなかったのだろう。

 父に「死ぬのが怖い?」って聞いたら、「それは若い証拠よ」って返答が返ったきた。時とともにいろんな経験を積む中で、死を自然と受け入れていくものかもしれない。

 わりと赤裸々に死ぬのが怖いと思う理由を羅列してみると

・この世に存在しなくなるのが怖い

・この世にあるまだ経験してない経験をできなくなるのが怖い

・死の先が見えないから怖い

・何も感じない、何も見えない、ただ漠然と恐怖が支配する

といったとこだろう。こうやって羅列してみると、生への執着と共に、先が見えずわからないものへの恐怖が根底にあるんだなとわかる。

 あるサイトに、自分のために生きるのをやめて、一週間だけ相手のために生きる生活をしてみると、死への恐怖はなくなると書いてあった。なるほど、死への恐怖は自分のために生きるからこそ沸き起こるものかもしれない。死を推進するわけでは決してないけど、自分の生への執着をなくすことで、死を受け入れることができるかもしれない。

  麻生太郎がいっていた。「朝希望をもって目覚め、昼は懸命に働き、夜は感謝して眠る。」そういった生活が人生を達観できる秘訣かもしれないと感じた。

男と女の不都合な真実

 女と男は不平等だと思う。男女均等の世の中なんて叫んではいるけれど、力の差も姿形も違ってくるのは分かり切っていることで、男女を認識させるのは、もっぱら主観意識によるものじゃないか。(私が女である、男である、といったような)。身体が育っていくに連れて、そこに「意識」が生まれ、自分が女であることを自覚させられる。身体の作りが先で、意識は後から着いてくる。赤ちゃんの時から自己の性別を自覚して生まれてくる人なんているのだろうか。

  日時生活で、男によって力の差を見せつけられることがある。私は男の人に、「男だったら殴ってる」と言われそのことに対して物凄く怒りを感じた経験がある。そのときはただただその人に対して「怒り」と「嫌悪感」しか感じなかったのだが、この感情はどこから来るのかを冷静に考えてみようと思う。

  その人を仮にAさんとしよう。Aさんは自分が男であること、そして男は女より力があり、力的に優位に立っているという自覚がある。もし均等の力をもっていると感じているならば、表へ出ろといったような言葉を使うであろう。女は男に勝てない。暴力であなたを封じ込めることはできるけど(私は優しいから)おまえは女で力も劣っているから使わないでおいてやるよ。そういった気持ちなのだろうか。私は、力の優劣や男の優位思想を感じながらもそれに勝てない自分、自覚している自分に腹が立った。そして対等に立ち会い、なんとかこの怒りを相手にぶつけたいと思いながらもどこか恐れを感じていることに不満を抱き、それを怒りや嫌悪感といった感情で相手にぶつけていたのだろう。

 ただ一つ思うのは、そういった男はかっこ悪い。たぶん逆もそうで、女であることを自覚しながらそれを逆手にとって、相手より優位にたとうとする女もかっこ悪い。先程のAさんは力では勝ったかもしれない。けれど、選べない性により相手に差異を感じさせ、不快な思いにさせながら生きるのはかっこ悪いと思う。

 男女均等とは、差異を自覚しながらもお互いの性を尊重し、差異を埋め空いながら助けていくことで成り立つのである。だからこそ、男から女、女から男への気遣いやフォローが大切なのだと思う。ただ自分の性に不満を持ち、男にあって女にないものや置かれている状況に不平を言うのではなく、差異を認めさりげなくフォローする生き方をしたい。最近強くそう感じる。

幸福の条件

 幸せはひとそれぞれ。何が自分にとっての幸せなのかは人によって違う。食べることで幸福を感じる人、恋をすることで幸福を感じる人、世界に誰一人として同じ人はいないのと同様に、幸せの形は人の数だけ存在する。しかし、実際に現実をみてみると、幸せを一律に定義し、幸せを人と比べがちなのだと思う。

 この時期になってくると、就職や試験などで人と比べ、嫌な気持ちになることがある。聞きたくもないのに耳に入って来て、考えたくもないのに考えてしまって、負のスパイラルに陥ってしまう。

 私の好きな少女漫画で、こんな言葉がある。「人は「梅干しおにぎり」である」という言葉だ。人は自分の梅干し(=良いところや幸せなところ)をみることができない。でも、人の梅干しは容易に見えてしまう。だから、人の梅干しを見て羨んでしまうのだと。自分にもちゃんと「梅干し」はあり、その梅干しが見えていないだけなのだ。

 人は人。比べることで自分の立ち位置や社会的な順位はわかりやすくなるかもしれない。しかし、生きるうえで大切なことは、自分固有の幸せを見つけることではないだろうか。一時的な不安や満足を得るのではなく、長期的にみて自分を高めていくことが、ずっと学んでいく姿勢が大切なのだ。人と比べることでは、自分は1ミリたりとも進化しない。もし比べる時間があるのなら、1冊でも多くの本を読むか、知らない街に出かけていこう。そうやって、自分の「梅干し」を磨けていけたらいいな、と思う。

ステイ・フレンズ

 私はよく、男友達と二人で飲みにいったり、遊んだりすることがある。完全と友達として接しているからこそ、そこに恋が生まれるなんてことはない(と思っている)。

 しかし、それはある女友達から言えば間違っているのだそうだ。男女間の友情は成立しない。男と女であるが故にある種の「欲」が生まれてしまうのは必然だという。

 男女間の友情が成立するのか。これは永遠のテーマである。

 

 私の仲の良い友人であるAさん(女)は、カレシの他にセフレがいる。普通、セックスをしたらその人を好きなるものではないかと思うが、Aさんに言わせてみると、それは違うのだという。

 遊ぶときは一度きりで、好きになりそうな人とはそもそもしない。1回して、良いなって思っても、その人の体温やテクニックに酔っている場合が多いため、実際には「愛」が芽生えたというよりは、身体に「執着」している状態なのだという。セフレという割り切った関係でさえ執着してしまうのだから、友達という曖昧な関係であれば男女の関係になるのもいた仕方ないことだと思う。

 私が思うに、男女間の完全な友情関係は親密度の度合いによる。なんでも言い合える、なんでもさらけ出せる(すっぴんが見せれる)状態になると、もはや相手に対して「欲」はわかないのではないだろうか。カレシカノジョの形態が変化している現代において一概に定義することはできないが、少なくとも「性欲が湧くか否か」は一つの目安だと考える。

 何事もさらけ出していく段階において、互いにその存在を「友達」と脳に思い込ませ、一定の状態に達すると、もはや相手は友人であり、友人に対し「性欲」は湧かない。前述のように、欲を満たすだけの1度きりの関係じゃない限り、セックスをしてしまえば、互いに(少なくとも女性においては)ある種の感情を抱かないことは不可能であり、継続したセフレというのは難しい。

 男女間の友情は、お互いが親密になっていく段階で、互いに理性が働くか否かにかかっている。少しでも理性より本能が勝ち、身体の触れ合いが生まれてしまうと、継続しなくなってしまう。「男女間の友情が成立しない」といっている人たちは、理性より本能のままに生きている人なのかもしれない。