大人のカイダン

思ったことをありのままに書いてます。

私がリア充にキレた理由

 徒然なるままに日暮し。大学に入学してはや4年。4年間の中で経験したこと、日々感じたことを記録に残さないのはもったないない、と思い立ったが吉日。拙い文章なりに日々思い立ったことを記していこうと思う。

 

 今日は、私の中で永遠のテーマである「カレシカノジョ問題」について書いていきたい。4年間パートナーがいなかった私からみた、大学生カレシカノジョ事情や、非リアであるがゆえに受けてきた迫害をありのままに述べていく。

 大学生にとって彼氏・彼女とは一体何か。「大好きな人」だったり「一緒にいて安心する人」だったり、何とも吐き気を催しそうな答えが返ってくるであろう。様々な答えがあるとは思うが、私が思うに、大学生には、カレシカノジョに必ず含まれる一要素がある。それは、「アクセサリーないしステイタスの要素」である。

 よく、○ンスタグラムやツ○ッターに恋人の写真を載せる輩がいる。「何か月記念日♡」だの、「○○に行ってきた♡」だの、見たら衝撃のあまり石になってしまう所謂「メドゥーサ投稿」。私も100回は石にされてしまった。自分が持っているステイタスをひけらかし、「羨ましいでしょ」と言わんばかりにラヴラヴな写真をアップする。それを見る非リア充たちの気持ちを考えたことがあるのか。そういう人たちあるあるなのが、1年も経たずに別れ、すべての画像が削除されていることだ。付き合ったことをいちいち皆様に報告していたのだから、別れたことも投稿せい、と思ってしまう。まあでも、一つ同情するとすれば、芸能人が離婚した後お昼おワイドショーの格好のネタにされるように、別れたなんていうことは、女子会という名のワイドショーにとりあげられ、酒の肴にされてしまう。別れたことをネタにするのを、感じ悪いと思うか。今までやってきた数々の悪行の罪を背負い、心身ともに清らかな聖の身となって生きていくためには必要なことなのだ。リア充というステイタスを失ったものに対して、北斗の拳はこういった。「おまえはもう死んでいる」。

 日本の最高峰である某大学に通い、日々勉学に励んでいる私の辞書に、「コイ」や「アイ」などの文字はない。しかし、同郷の友人に会うと、一言目には決まって「カレシデキタ?」と聞かれる。こだまでしょうか?いいえ、そんなことはない。(金子みすゞも言っている。)聞いてくる友達は大体がリア充、充実した私生活、安定した恋愛ぶりを送っている人たちなのであり、私には「どうせできてないでしょ(笑)」の言葉が聞こえてくる。

 恋愛至上主義のある友人に、先日彼氏ができた。つい最近まで「リア充死ね」だの「あのカップル嫌い」だの文句を垂れ、2日に1度はlineがきていた友達がとあるとこから彼氏を見つけてきた。この男がどうにも、世間一般のイイ男なのである。女というのは不思議なもので、つじつまが合わないだろうがなんだろうが、自分の都合の良いように物事を運ぶ傾向がある。あれだけ文句を垂れておきながら、事あるごとにSNSに恋のランデヴーを匂わせる投稿をするのである。2日に1度きていたlineはとだえ、それどころか事あるごとに「カレシ」用語を持ち出してくる。(これが何とも腹立たしいのである。)ここまで人を狂わせる「カレシ」とは、甚だ恐ろしい存在である。もはや、女子の「カレシ洗脳」を利用し、一種の人格改造ビジネスが展開できそうである。