大人のカイダン

思ったことをありのままに書いてます。

男と女の不都合な真実

 女と男は不平等だと思う。男女均等の世の中なんて叫んではいるけれど、力の差も姿形も違ってくるのは分かり切っていることで、男女を認識させるのは、もっぱら主観意識によるものじゃないか。(私が女である、男である、といったような)。身体が育っていくに連れて、そこに「意識」が生まれ、自分が女であることを自覚させられる。身体の作りが先で、意識は後から着いてくる。赤ちゃんの時から自己の性別を自覚して生まれてくる人なんているのだろうか。

  日時生活で、男によって力の差を見せつけられることがある。私は男の人に、「男だったら殴ってる」と言われそのことに対して物凄く怒りを感じた経験がある。そのときはただただその人に対して「怒り」と「嫌悪感」しか感じなかったのだが、この感情はどこから来るのかを冷静に考えてみようと思う。

  その人を仮にAさんとしよう。Aさんは自分が男であること、そして男は女より力があり、力的に優位に立っているという自覚がある。もし均等の力をもっていると感じているならば、表へ出ろといったような言葉を使うであろう。女は男に勝てない。暴力であなたを封じ込めることはできるけど(私は優しいから)おまえは女で力も劣っているから使わないでおいてやるよ。そういった気持ちなのだろうか。私は、力の優劣や男の優位思想を感じながらもそれに勝てない自分、自覚している自分に腹が立った。そして対等に立ち会い、なんとかこの怒りを相手にぶつけたいと思いながらもどこか恐れを感じていることに不満を抱き、それを怒りや嫌悪感といった感情で相手にぶつけていたのだろう。

 ただ一つ思うのは、そういった男はかっこ悪い。たぶん逆もそうで、女であることを自覚しながらそれを逆手にとって、相手より優位にたとうとする女もかっこ悪い。先程のAさんは力では勝ったかもしれない。けれど、選べない性により相手に差異を感じさせ、不快な思いにさせながら生きるのはかっこ悪いと思う。

 男女均等とは、差異を自覚しながらもお互いの性を尊重し、差異を埋め空いながら助けていくことで成り立つのである。だからこそ、男から女、女から男への気遣いやフォローが大切なのだと思う。ただ自分の性に不満を持ち、男にあって女にないものや置かれている状況に不平を言うのではなく、差異を認めさりげなくフォローする生き方をしたい。最近強くそう感じる。